終戦後の昭和20年8月22日早朝に発生した事故。樺太からの引揚者、約5,082人を乗せた引き揚げ船三隻が旧ソ連軍の潜水艦による魚雷攻撃を受け、そのうち二隻が沈没して死者・行方不明者合わせて約1,708人もの犠牲者を出した悲劇であります。小生10歳の夏でした。
唯一、沈没を免れた「第二新興丸」(2,500トン)に乗っていた引揚者の人達の話では、22日の午前5時30分ごろ、攻撃を受けた「第二新興丸」の船腹には横12m位、縦5mぐらいの大きな穴が空いたものの、傾きながら航行を続けたが潜水船が浮上して魚雷だけではなく機銃掃射もしかけてきたようである。「第二新興丸」は9時ごろ留萌港に傾きながら入港、南岸壁に着岸した。
南岸壁にはバラバラになった犠牲者の遺体が並べられていた。倒れたマストや甲板上の機械に付着した肉片、甲板に散乱している遺体を収容し、岸壁に筵を敷きそう上に遺体を並べ上に筵をかけて安置されて居た。船の甲板は血の海でした。役場の人・警察官・日通の作業員・鉄道員・付近の町民が悲痛の顔で、無言のまま犠牲者の遺体を収容していた。
後で知ったのだが、旧ソ連軍は8月8日に日本に宣戦布告し、樺太庁は緊急疎開の要項を全島の支庁、市町村、警察に通達し、疎開対象者は65歳以上の老人、14歳以下の学童、40以下の女性と乳幼児、体の不自由な者と病人に限られた。その数約16万人と伝えられている。
昭和20年8月22日・日本とソ連両国で停戦協定が成立、ソ連側から船舶の運航・輸送停止命令が発せられ、緊急疎開が打ち切られるまでの間、約87,600人が本国に疎開した。日本に帰還すべく臨時疎開船として急遽配属になった逓信省所属の「小笠原丸」が大泊港を出航したのが20日午後11時頃、「第二新興丸」が21日午前9時頃大泊港を出航、泰東丸が大泊の岸壁を離れたのは「小笠原丸」の出航から一日遅れの21日午後11時頃であった。
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